ポストイットとラインマーカー

わなび学生による漫画、アニメ、日常中心の覚書ブログ。短歌も1日1首載せています

11/5(火)肌と肌の触れあいで分かり合えることは、多いです

先日、人見知りの私は人生初の合コンに参加した。結果は想定通り惨憺たるもので、厳しい現実を学んで帰ってきたのだが、その合コン前に読んでいたのが今日ご紹介する『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』である。
 
 
『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』は北原みのり氏による、練炭殺人で有名な木嶋佳苗被告の裁判傍聴記だ。昨年4月に朝日新聞出版社から出版された後、今年10月に講談社文庫で文庫化された。
 
この練炭殺人事件は、「不細工」が次々に男からお金を騙し取り、彼らを練炭で永遠の眠りに追いやった事。その一方で、犯人がセレブ生活を気取り、豪遊していた事、の2点で話題になった
 
 
 
さて、では合コンの話に戻ろう。私が何故これを合コンの前に読んだ事を強調したかというと、合コンに出て、本書の話を実感を持って理解したからである
 
例えば学生にとっての合コンというのは端的に言えば、遊び相手を探す場である。ちょっと寂しい「出会い」を求める者同士が、お互いに自ら俎上にあがり、鱗を削いで利用しされる関係になる場
 
そういう場では、必然的に利害調整というものが必要で、調整には金・知性(学歴)・肩書き・遊びやすさ等に関する情報がオブラートに包まれて交換される。特に、その利害調整というのは、突き詰めてエグい言い方をすると性欲と物欲の交換という形式になりがちである。
 
 
この言い方だと私は利害調整が悪だと思っているように聞こえるだろうが、嫌悪はすれど別に悪いとは思わない。男女間に限らず人間関係全般にこの利害調整はある程度用いられているからだ。通常、オブラートに包まれることでその利害調整はコミュニケーションに昇華される
 
ただ、一度このシステムの裏をついて、意識的に突き詰めていけばそれは性を問わず売春になる。そして、効率的に大きな物欲を満たそうとしていけば木嶋被告のような方法も選択肢に入ってくる。
 
 
木嶋被告の言葉を引用してみよう。これは被害者男性安藤氏へのメールの文面である
 
  • 「建三さん、とお呼びしましょうか。私のことは佳苗と呼んで下さい」
  • 「(安藤さんのこと)気に入りました。気取らず、楽しい時間を過ごせると思います」
  • 「男性機能が不能ならお付き合いは無理と思っています。肌と肌の触れあいで分かり合えることは、多いです」
(p.83L13〜16)
 
あなたはどう思うだろうか?
 
私はこれらの文章が綺麗だと思う。気持ち悪い位に型を極め、必要な情報を圧縮して載せた、不愉快な臭みを全て除去した文章。自分の文体も無ければ、送信対象の特徴に対する言及も無い。その癖、「男性機能が不能なら」等々の匂い付けにも余念が無い。色気のいの字も、相手への本当の意味での思いやりも皆無だが、余裕の無い男性が求める簡潔さと媚態を取り揃えた完璧な文章。
 
金や物を払って人間と価値を結び付けるのが怖い、よく言えば潔癖、悪く言えば臆病な人間。けれども、孤独にも耐えられなくて人の温もりやSEXが欲しい。そんな私のような寂しい人々は、きっと木嶋被告に恋をする。分かっているけど、のってしまうのだ。それ位寂しいのだ
 
 
 
被告は形を変えた同様のメールを他の男性にも送りつけている。まあ、これだけ優れた量産文、使いまわさない方がおかしいだろう。一方で妹2人に以下のような文章を送っている
 
  • 「(介護ヘルパーに行っているお宅で)10年洗っていないこたつ布団。さすがに気持ち悪いわ」
  • 「あのゴミ屋敷で畳替えしてきたんだけど、10年以上替えていなかった畳を外した後の床。○○さん(妹の名)なら、気絶していたと思うわ」
(p.87,L8〜11)
 
再び訊くが、あなたはどう思うだろうか?
 
恐らく嫌悪感を持っただろう。「なんだこの人、どうしてここまで裏表を持てるんだ?」、と。だが、同時に少し安心した方も多いのではないだろうか。その安心は、自分と同じ「人間味」を感じるからこそのものだ
 
 
私は漫画やアニメといった現実以外で、彼女のような便利な人間を確実に求めている。だが、現実でそんな生き方を出来る人間がいるとすれば売春等の「仕事」を前面に出す、そんな人間であって欲しいという気持ちも持っている。それは、対価を要しない都合の良さと対価を要する都合の良さ、その両方が存在するという了解を維持しないと愛というドラマが存在出来ないからだ。木嶋被告に貢いだ男性達が結婚にどこか求めていた癒しも無いのである
 
木嶋被告は、倫理的な面で言えばその行動には多大な、許容できない問題があったけれども、あくまでもその行動が「仕事」の範疇に入っていたという点では、我々でも安心感を持てる位至って凡庸な人間だったと言えよう
 
 
 
本作を書いた北原みのり氏は、木嶋氏が「不細工」である事が大きく取り上げられた事を非常に問題視していた。
 
あけすけな言い方をすると、「美人」は売れっ子でも自然で、「不細工」は売れっ子では不自然だという考え方には、「商品」として相手を蔑視する視線が含まれている
 
木嶋被告の行動の正当性は兎も角、「商品」として眼差されるものが徹底的に「商品」として生きてみた、それが今回の事件なのかもしれない。だが、世の大半の人々(主に男性)からすれば、その生き方は反逆なのである。なぜなら、「商品」が人間らしさの幻想を被る事が「商品」の価値を高めるのだから
 
 
 
さて、では木嶋被告の行動を受けて、そのような「商品」の幻想の破れに対して私なりの回答をするとすれば、「仕方ない、成り行きに任せろ」である
 
金が段々両性に平等に振舞われるようになってきた。性の幅さえ広がって、最早ボーダーもわからなくなってきた。セフレと恋人の合間だって分からない。1on1に対する強制だって、「仕事」にせずとも抜け道は幾らでもある。そんな世の中で出来る事は、他人に押しつけないように気をつけながらそれでも幻想を強く信仰し続けるか、幻想を捨てて流れに身を任せるかしかないだろう
 
 
ちなみに、私は開き直って前者を選ぶ。それは私が信じたいから、というより、今の私ではどうにも後者を好きになれないからだ
 
中島みゆきの『1人で生まれて来たのだから』を聴きつつ孤独の準備をしながら、先の見えない砂漠の中で同志に巡り合えるまで歩き続ける。気が狂ってしまうのが先か、オアシスに辿り着けるか、オアシスがもしかしたら毒沼かも分からないけれど、兎に角歩き続けるしかない。
 
嫌になったら思想転向すればいい。自分に都合の良い解釈で誰かと折り合いをつけられる時代が来ることを望みつつ、孤独にも打ち勝てる事を信じて、黙々とただ歩くのみだ