ポストイットとラインマーカー

わなび学生による漫画、アニメ、日常中心の覚書ブログ。短歌も1日1首載せています

11/18(月)愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いわばその間にある。

以前尊敬する教授が、講義でアリストテレスの「中間」思想の重要性を挙げた時に、三木清の『人生論ノート』から以下の言葉を引いた

 

「愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いわばその間にある。間にあるというのは二人のいずれよりもまたその関係よりも根源的なものであるということである。それは二人が愛するときいわば第三のもの即ち二人の間の出来事として自覚される。しかもこの第三のものは全体的に二人のいずれの一人のものでもある。」

  

「中間」は、極そのものとは異なる存在でありながら対極するもの双方に属してそれらを包み込み、更に大きな視野でそれらを眺めることが可能である。人間は「動物」と「神」のいずれにも完全に返る事が出来ないが、その双方に属する「中間」に存在する事で両者を介し、両者が出会う「場」となることが出来る。教授は三木氏の愛の表現を用いてこのような事を説明した

 

 

今日、雑務を予定より早く済ませ、次の授業まで空いた時間に生協で教科書をためつすがめつしていた私は、突然に教授の話を思い出した

 

三木氏が西田幾多郎氏の弟子であるという事、引用された言葉の素敵さと「中間(場)」思想と「愛」の絡め方への興味から本文が気になった事、説教臭いタイトルに惹かれていた事もあって、読もう読もうと思っていたのだ。探してみると流石大学生協、きちんと在庫がある。出版は新潮文庫からで、その値段362円(税別)也。この値段なら買っても良いか

 

 

人生論ノート (新潮文庫)

人生論ノート (新潮文庫)

 

 

他にも三木氏の本を探してみたが、残念ながら在庫が無いようなのでとりあえず本作のみ購入。遅い朝ごはんも消化されきったのか小腹が空いた。西門を出て直ぐのうどん屋で腹ごなしをしてから、空き教室へ移動。早速該当部分を確認し、どんな文脈で語られたのかを確認しよう

 

 

本を開き、まずは目次を眺めるが、おかしいことに教授の仰っていた「愛について」という章はどこにも見当たらない。さては本を間違えたか、そう思いながらもぱらぱら捲って探してみると該当部分は見つかった。「希望について」という章で148頁3行目から6行目。確かに本書であっているようだ。

 

  •  希望は「いわば運命というものの符号を逆にしたものであ」(145頁7~8行)り、「無から出てくるイデー的な力である」(147頁15行)。
  • 「絶望とは自己を放棄することである」(148頁9行)。すなわち、希望は「自分に依るのでなくどこまでも他から与えられるものである故に私はそれを失うことが出来ない」(149頁2行)。
  • 「断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することが出来る。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。」(150頁) 

 

切り貼りのような要約で申し訳ないが、ざっと本章を読みすすめてみると、以上が「希望について」の章の本旨であった。少し意味不明か

 

運命と希望はともに偶然とも必然と言える似たもの同士だが、+と−のように両者は常に相克する立場となる。愛と同様、運命も希望もそれを感じる人にとってはその人自身の内側の感覚でありながらその人自身から生まれるものではなく、どこまでも他から与えられるものである。よって絶望という状態は、その人がその人自身を放棄する事によって与えられ続けている希望を受け取らないようにする事でしか起こりえない。そして、選び取る力(「限定する力」)としての希望は、断念することを本当に知っている者によってのみ持つことが出来る。本旨の意味を本当に大ざっぱに噛み砕くとこうだ

 

この文脈の中で、愛は、「運命として、その必然としての力に縛られる事から脱するために希望を要する」存在として、章の中間部と最初の引用文を使って触れられていた。だが、あくまでも文章の本旨ではなく、個人的に「愛について」を本旨に語ってくれることを期待していた私としては少し残念である

 

 

ただ、「死」から「個性」に至るまで23ものテーマについて、1テーマあたり1章6頁の簡潔さでまとめているという点で、本書が思索のきっかけとして非常に有用であることに疑いは無い

 

また、三木氏自身の視点や思想も、単に私が物を知らない事を除いても、現代まで通ずる新鮮なものだ。これは氏の哲学者としての素養が高かった故だろう。

 

 

「以前の心理学は心理批評の学であった。それは芸術批評などという批評の意味における心理批評を目的としていた。人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評価する事によってこれを秩序附けるというのが心理学の仕事であった。この仕事において哲学者は文学者と同じであった。(中略)そこに心理学をもたないことが一般的になった今日の哲学の抽象性がある。その際見逃してならぬことは、この現代哲学の一つの特徴が幸福論の抹殺と関連しているということである。」(19頁5行から15行)

 

うーん、しびれる。これは哲学をやっている人間は多かれ少なかれ思っているけれども、同業者、特にプラグマティストや言語哲学者に喧嘩を売ることになるためなかなか言えないことだ。三木氏に実力があるからこそ、言っても問題がない

 

本当にこんな鋭敏な感覚と表現能力を持った人物が、戦争のせいで獄中死しなければならなかったとは……月並みだが氏の気持ちを想うと無念としか言いようが無い

 

 

ちなみに、まだ本作の半分も読みきっていないが、特に私が気に入ったのは「幸福について」の章の

 

「しかしながら今日の人間は果して幸福であるために幸福について考えないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。」(17頁4から6行)

 

という言葉である。この言葉に通じる思想は、最初の「死について」の章にも入っていたが、わかりやすいのでこちらを引用した

 

 

我々は、肯定的な事柄について問い、確認することを避ける。それは、最早否定状態の否定が肯定だという観念が社会で罷り通っているからであるし、特に現代の場合は、価値の多様化が叫ばれる中で真理を問うという事が、宗教への恐怖とも結びついて、避けられるようになったからでもある

 

しかし本当に、肯定状態を真剣に問えない我々は肯定状態にあるのだろうか。真理は不在なのだろうか、その存在を問う事、信じる事を避けて良いのだろうか。私は、あくまで無宗教者であるが、自分のこれまでの短い人生でずっとこの疑問を捨て切れなかった

 

氏は問うている。『人生論ノート』という書物の中で「永生」を生きる三木氏は、死してなお真剣に、氏自身と私達へ「幸福とは何か」を問い、自らの答えをも提示する。そんな氏の姿に、生者でありながら堂々と問う事さえ出来ない私は恥ずかしくなる

 

 

だから私は三木氏を尊敬し、卑怯な手段ではあるがこのブログを用いて、三木氏の言葉を引いて自らと、あなたに問う。

 

「幸福」とはなにか

 

 

 

追伸

 

よく調べたら、青空文庫にもう入っている作品でしたね。まあ、解説にお金を払ったと考えよう。

というわけで、kindle向けの無料リンクを貼っておきます 


あと、テーマがテーマだけに某宗教に関係ありそうに見えますが、そんな事は一切ありません。広告にその宗教の著作が出てきて、私は大層驚きました

 

人生論ノート