ポストイットとラインマーカー

わなび学生による漫画、アニメ、日常中心の覚書ブログ。短歌も1日1首載せています

11/25(月)みかん

 親戚筋から私の旅行中にみかんが届いた。母は、お返しをしなければならないから面倒で嫌になる、と愚痴をこぼしているが、懐の寂しい私からすると旬のものを頂けるのはありがたい限り
 
艶の良い小ぶりのみかんをうっとり眺めていると、送ってくれた親戚の皺くちゃな顔を思い出す。御歳80にもなるが、頭も身体もシャキッとした、話していて面白いし勉強になる方だ。きっと遊びに来て欲しくてこれを送ってくれたのだろうから、御礼も兼ねて今度また遊びに行こう
 
考えてみると、贈り物は不思議に人と人を繋ぐ魔法のようなものである。誰かが私の事を考えて何か送り、一本御礼の連絡を入れてこちらも相手のことを考えて何かを送り返す。同時に、お互いの今をも送り合う。そんな相互的な関係をさり気なく結べるのは素晴らしい事だ
 
 
 
 メールや電話、コミュニティサイトで、相手との物理的距離が幾ら身近になったように見えても、「私-あなた」という関係で連絡を能動的に取ることの難しさは変わらない。むしろ、見かけが容易になった分、困難になったとも言える
 
その点、親戚や友人付き合いでの贈り物というのは単なるお裾分けを超えて、相手への変わらぬ思いやりを伝えるとともにその安否を確認するための手段として機能している。御歳暮や実家からの仕送りなどがその顕著な例だ
 
特にお年を召した方達は、この文化の力を経験的によく知っているようで、必要な時にその季節のものをきちんと送ってきてくださる。りんごやみかん、さくらんぼ、おもち。俳句の季語のようなもので、旬のものを贈るという行為が相手に喜ばれる事を超えて、時候の挨拶として機能するのである
 
 
 
 友人や親戚との付き合いが疎遠になっていき、当たり前に使っていた連絡手段も時代の趨勢で廃れ、徐々に自分の世界が閉じて行く寂しさ。歳を重ねる毎に人はその寂しさに向き合わねばならない。連絡手段の更新速度の加速と多様化による分散が進む現代においてはこれは非常に顕著で、私も含めて誰しも平等に強いられる事だ。そんな時に贈り物という文化は、住所さえ分かれば簡単にやり取りの出来る原始的な連絡手段として私達の最後の希望となり得る。特にお年を召した方達が贈り物の力をよく知っている、と前述したが、それは世代差等による経験的なものを除いても、贈り物にかける切実さが異なるからかもしれない
 
今は母もぶいぶい文句を言っているけれど、きっと私達子ども達が皆巣立ち、父と2人きりで歳を重ねるようになれば同じ寂しさを突きつけられる。どんなに自分の世界を更新してもついて回るそれに、私に似て人嫌いなでものぐさな母でも憂鬱な気持ちになるのは間違いない。
 
その時、母が今の考えに掌を返して、贈り物をどんどん送るような人であって欲しいと私は思う。そうしたら仕事で時間の取れないだろう私も、面倒臭いなあと言いながら、恥ずかしがらずに電話を一本入れる事が出来るだろうから
 
 

 

※今日は、贈り物つながりで「贈与」を学術的に考察した 本のAmazonリンクを貼っておきます。今日の日記に直接内容を載せた訳ではないし、両方とも私は断片的にしか読んでいないので紹介するかどうか迷いましたが、面白い内容なので興味があれば読んでみてください

 

贈与論 (ちくま学芸文庫)

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交換と主体化―社会的交換から見た個人と社会

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