ポストイットとラインマーカー

わなび学生による漫画、アニメ、日常中心の覚書ブログ。短歌も1日1首載せています

1/6(月)深爪の 羅紗着流した 遊女らの 唇に乗る 雪の曙

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 本日は、「⚪︎gの◽︎%を求めよ」という問題で、計算は合っているにも関わらず答えの単位を「%(パーセント)」にする子に、何故「g(グラム)」を使うのかを必死に教えていました、芭蕉です。
カステラとナイフの関係に「g」と「%」を当てはめ、消費税を計算する時に円を単位として使うことなどを例示したりして何とか理解して貰う事が出来ましたが、なかなかどうして焦りましたね。
 
さて、こうして苦労話のように書いてているわけですが、私は決して教え子の愚痴を言いたいわけではありません。
むしろ子どもたちと向き合う時は、自分が勉強不足だと常々痛感させられますし、いい勉強をさせてもらっていると心から思っています。
 
 
 
私は、アルバイトで子ども達の勉強のお手伝いをしています。
あくまで学生即席教師の身ですから、勿論努力は怠りませんが、どうしたって実力は正規の教員の方に遠く及びません。
しかし、学校ではフォローしきれない子ども達と腰を据えて向き合う役目は何とか果たせているのではないかしらと思っています。
 
今までの経験上、平均より少し下から平均程度、そこそこ成績の良い子どもに勉強を教えるのは非常に簡単でした。
どんな子でも大体は、一度解法を教え、簡単でも同じ問題演習を反復させれば自動的に成績が向上しましたから。
更に呑み込みが早く、既に十分な成績をとっている優秀な子なら、彼らの年齢より少し上の知識を用いた解法を教えて宿題さえ出しておけば勉強してくれました。したがって、こちらはその子のレベルに合った問題を見繕うだけで済んでいました
 
 
けれども、かなり楽をさせて貰える反面、平均以上の優秀な成績を取れる子どもたちは、勉強を教えていてもあまり「面白い」と思う瞬間がありませんでした。
子どもを教える立場の人間が、自分の仕事に対して「面白い」などという形容詞で表現すされるものを求めることを不愉快に思う方はいるかもしれません。もしそのような方がいらしたら申し訳ないと先に謝っておきますが、実際「面白」くないのです。
その理由には、ある程度成績の良い子に対してだと教師としての自分の影響力を持てないなどという、幼稚で利己的なものも少しは含まれているのかもしれません。ですが、恐らく最大の理由は、「こちらが頭を使わなくて済むから」だと思います。
 
 
成績の悪い子どもに勉強を教えるのは、冗談抜きで非常に難しいです。
大体の子は「自分が何が苦手でどうすればいいか分かっていない」がスタート地点ですし、各分野の専門的知識以前の基礎知識(例えば数学で言えば単純な計算)が出来ない子がザラ。
ノートは取らないし、宿題は出してもまず確実にやらないので、短い指導時間内に簡潔に分かりやすく最低限の知識を習得させるという無理難題をこちらがこなさなければならない。そんな状況ばかりでは私だって聖人君子ではありませんから、時にイライラしますよ
 
ただ、彼らの素晴らしい点は、定義された世界にはまっていない分、こちらからしたら至極当たり前の事を「なぜ」と問うてくること。
成績優秀な子どもたちは確かに申し分無いですが、意外性のある質問というのはそうそうしてきません。正確に言うと、新しい分野の知識の教え始めにはしてくるんですが、彼らの持つ高い順応力のおかげで一週間も経たずにその分野の構造を理解し、見事に順応してしまうのです。
対して、成績があまり良くない子どもたちというのは優秀な子どもたちと比較して順応が遅れてしまった、もしくはしきれなかった子どもたちが大半です。したがって、真剣な表情で冒頭の質問のような間違いをしたり、ヘンテコな質問をしてきたりします。
 
そして、彼らが問うてきたことに正面から向き合うことで、私は①「常識」について再考し、②質問された分野に関して専門的な言葉を一切使わず説明する方法を考える、という2つの貴重な経験を出来るわけです。
ある言語で語られる世界を異言語を用いてを語る、一種の翻訳ですね。大袈裟かもしれませんが、この子ども達に勉強をしている間、確かに私は異文化コミュニケーションをし、自らも学びを得ているのです。そういう意味で成績の良くない子どもたちに勉強を教えることは、「面白い」のだと思います
 
 
同様のことは、教育以外の様々な分野にも当てはまるらしく、技術者の方と芸術家がコラボレーションする等々、世間様では一見全く異なる分野の間での越境や協力というのは、しばしば双方の分野にとって示唆的かつ創造的な方向に繋がると言われます。
やはり、「よく知っている(と思っている)ものを語り直す」事によって、今まで見えなかった切り口で自分の慣れ親しんだものが見えてくるのかもしれませんね
 
あ、ちなみにこの手の話をすると決まって「専門家不要論」と同一視されますが、勿論私は専門家の存在を否定している訳ではありませんよ。
むしろ、そういった立場とは正反対の立場です。専門家がいなければ特定の分野が掘り下げられる事は無いと思いますから。
私が言いたいのは、特定の事柄についてよく知っていると自負を持つ人間だからこそ、全くそれに関わらず生きてきた人間に語り直す事で得るものがあるかもしれないよ、ということです。
 
 
 
……て、なんか、当たり前の事を言うオチになっちゃいましたね……我ながらつまんない話になってしまったな。
今日はこの辺で筆を置きましょうか。それでは、また明日